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房一はふとその様子から、医者になつてはじめて帰国したとき、例の伯父が苦学の模様を根掘り葉掘り訊いて、満足げにうなづいたときの恰好を思ひ出した。そして、いつのまにかこの老医師に親しみを感じ出している自分に気づいた。それは彼が予期したこと、前もつていろんな風に描いていたものとはまるでちがふものだつた。この分では大して案ずることはない、房一はさう考へた。何かしら前の方がひらけ、何かが前の方で微笑して彼を迎へているやうに思はれた。
その苦痛を天城先生に訴えたら、洗眼器をかして下さった。入浴しながら、これを用いて、冷水で目を洗う。これを三分ぐらいやって、目をとじて、三十分、四十分、湯につかって、茫々去来するままにまかせておくのである。眼の疲れは急速に去った。目に水をそそいでから、ヌル湯にながく、ながく、ひたるということは、目の疲れとは別に、頭の疲れを払うためにもキキメがあるようだ。また入浴前に歯をみがいておくことも、いくらか入浴の頭に及ぼす効果を助けるようだ。
それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じていたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつていた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残していた。
職業柄人見知りなんかはしていられないし、又さういふことにかけては密ひそかに自信を持つていた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」
「鮒?――それあ喰べるとも」
と、大声で云ひ聞かせた。
間もなく相沢に案内されて、房一は病室へ通つた。外で見るよりはよほど広い家と見えて、廊下を何度か曲つた末に暗い突きあたりの襖が相沢の手で開かれて、房一がそこに踏みこんだとき、庭の向ふに立つ白壁の方から反射する逆光線の中で、かなりに広い部屋のまん中には床が敷きつ放しにされ、その上にごろ寝したまゝ雑誌を読んでいた息子の市造が、足音で気づいたのだらう、半ば起きかけて、入つて来る者をぢつと眺めているのを見た。
房一はすつかり夢中になつていた。
と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は?いや、字あざはどこでしたかな――ふむ、ふむ」
房一は急いで膿盆をひきよせた。